COVID-19流行下の日々を集団で記録する日誌

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2020-07-16

「ううううぅぅぅ~~んんんん……」

 もう日も落ちかけてオレンジ色に染め上げられている教室の片隅で、一枚のプリント用紙とにらめっこをしている少女。
 それを静かに見守る、赤というよりも朱色と表現した方がしっくりとくる色のスーツに身を包む一人の教師。パッツンと切りそろえられた長い黒髪と相まって、十二単を着た日本人形のような印象を受けてしまう。
 当然、二人っきりしかいないその空間で、少女が先生に向かってそんな感想を漏らすということも無く。
 そう、二人きり。教室には他に人影はない。
 他のみんなは既に、同様のプリント用紙に文字を埋めきり、さっさと帰宅してしまっていたのだ。
 少女がうめき声を上げつつ机に倒れ込むと、肩まで伸びた栗色の髪の毛がサラサラとその顔を覆っていく。

「香奈ちゃん、なんか思いついた?」

 教師としてはいささかフレンドリーな口調で声をかけられた当の香奈ちゃんは、しかし倒れ込んだままの姿勢でピクリとも動かない。

「……うううううぅぅぅんんん……玲奈せんせー、サッパリですぅ~……」

 情けなく潰れかけた声を絞り出す。
 香奈の瞳には、プリントに書かれた一つの文字が映し出されていた。

 ――進路希望――

 まだ高校一年生始まって二か月目。つまりは五月の段階でそんなもの考えている奴はいない。――というのが香奈の持論である。というか、であった。(過去形)
 なんと、クラスの他の子たちはみーんなスラスラと書いてしまい、ものの三十分でいなくなってしまったのだ。――香奈だけを残し。

「あ、先生! ヒント! ヒント下さい!」

「進路希望にヒントなんて無いって……」

 すがるように目を見開いてくる香奈を、玲奈先生は呆れた様に突き返す。
 そこでふと、何かを思い出すかのように天を仰ぐ先生。

「おぉ!? ヒントですか!?」

「うーん、ヒントじゃあないけど……ちょっと前に、職業体験(?)的な案件が学校に来ていたっけな―って思って……」

 香奈に向いているのかどうか、今一ハッキリしない微妙な位置に視線を向け、玲奈先生が独り言ともとれる低いトーンで説明しだす。
 声も小さめに調整されてて、それを聞くために香奈は玲奈先生に顔を近付けねばならなくなってしまった。
 何かの香水か、女性的な甘い香りが香奈の鼻腔をくすぐる。

「ねぇ香奈ちゃん。育児って興味ある?」

「はい!?」

 思いもよらぬ玲奈先生の質問に、香奈は図らずも、金切り声的な裏声を披露することとなってしまった。

 この世界では科学――この場合だと特に人間工学がかなり進んでいた。
 人工知能だけにとどまらず、人工的な人間の創造にまで手が届いているのだ。
 しかし、人の世と言うのは科学だけで成り立っているわけでは無い。倫理観というものが存在し、それが時に科学の暴走を食い止め、あるいは時に人類の発展を妨げていく。

「今回の場合は後者。特に害になる訳でも無いのに世論が邪魔して世に出せないって技術があるわけだよ」

 偉い学者気分にでも浸っているのか、玲奈先生はさっきから人差し指を真っすぐ突き出して、それを宙でくるくると回転させたりアッチコッチ指し示したり、意味も無く動かしまくっていた。
 時折、机の上にある分厚い本に指を這わせたりするが、今のところ開こうとする様子は無い。

「はぁ……」

 指の動きを視線で追いつつ、二酸化炭素と一緒に肺から漏れ出た様な生返事を返す。

 翌日、放課後に香奈を生徒指導室に呼び出した玲奈先生が、突然科学について語り出したわけだ。
 場所が生徒指導室なのは、内緒話に適した場所が他にないだけ。けっして香奈が不良だとかいうことでは無い。

「えっと……職業訓練って、結局なんなんです?」

 科学の発展についての話しも大事なのかもしれないが、玲奈先生は未だ職業すら明らかにしていないのだ。
 そんな疑問を漏らした香奈の鼻先に、玲奈先生の人差し指の先端が触れる。

「そう! 香奈ちゃん! 人間だよ人間! 人が作った人間だよ!」

 玲奈先生がおもむろに、机の上の分厚い本を両手で持ちあげ、思い切り香奈の目の前に叩き付けた。

「きゃふうっ!」

 驚いた香奈が、奇怪な声を発する。
 あまりの勢いに机が割れたんではと変な考えが浮かび、香奈の意識はまず机に向かう。大丈夫、問題無い。
 次に本だ。
 深緑色の皮の装丁で、複雑な金細工で補強されている。
 高そうな本なのに、壊れて無ければいいな。それが香奈の感想だった。

「そんな乱暴に使って、ダメにならないですか?」

 香奈の心配声を、玲奈先生は特に気にも留めない。

「すなわち人工人間。お父さんお母さんがいない、一から作られた存在に、法的な人権を持たせられないかって訳」

「……えっと、本……」

 香奈は本を指差し精いっぱいの主張はするがそれは通らない。

「研究機関とかはお国に打診はしてるけど、世論が納得してなければ通らない。なので世間一般にいろんなアプローチをしてるんだよ」

 言って、玲奈先生がその本のタイトルに人差し指を当てる。

「香奈ちゃん、分かる?」

「うん? 『大いなる淑女』? その、人工人間って言うのの解説書ですか?」

 言いながら、香奈は眉をひそめる。
 すごい分野なんだろうし、将来すごく発展する分野なんだろうけど、先生は自分に科学者になれって言っているのか?

「先生、わたし、そんなに勉強得意じゃないですよ?」

「だいじょうぶだいじょうぶ、分かってるって」

 分かられているのも、香奈的には非常に不満だったりする。

「研究機関からうちの学校に来た依頼って言うのは、生まれたばかりの人工人間を一般生徒に育ててもらって、親しみを持ってもらいたいっていうもの」

 玲奈先生はそこで香奈に、顔をめいいっぱい近付け、

「わたしとしては、香奈ちゃんに育児系……人工人間の保母さんとか、それ関係の器具や施設関連とか……そーいうのも選択肢にしたら? っていうわけで」

「うーん、そーですか……」

 ようやっと本題が理解できた香奈。

「育児系とか考えたこと無かったですが……わたしって、母性が溢れてるってことですか?」

「陰キャでボッチだし、人とのつながりが恋しいのかなって――」

 ズバリと言われ引きつる笑顔。

「大きなお世話ですって! それで、その人工人間っていつ頃学校に来るんです?」

「何を言ってるの? それがそうよ?」

「それ?」

 玲奈先生が指で指し示す。
 その先にあるのは、先ほどの本。

「これ?」

「それ」

 何を言っているのか理解に苦しむ香奈は、頭の上にハテナマークをいっぱい浮かべてしまう。

「今日からその本と共同生活してみてね! まずは、名前を付けてあげるところからね」

 玲奈先生が意外とうまくウィンクする。
 香奈の目が、玲奈先生の顔と人工人間(本)との間を行ったり来たり――

「ええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇ……」

 茶色いレンガ風の外装のマンション。香奈はそこの一室で一人暮らしをしていた。
 自宅に帰った香奈は、ベッドに仰向けになり本を掲げる。
 制服は着たまま。シワにならないように慎重に寝転がった。
 着替えるのは、ゆっくりとして落ち着いてから。

「これが人間?」

 香奈の目には本としか映っていない。
 パラパラめくると、各ページに文字と呼べるものは無く、細かい銀模様が張り巡らされているのみ。それらが人間の脳のニューロン網目構造と同じ働きをしているだとか。

 玲奈先生がこの本について香奈に説明した内容は一つだけ。
 本の表紙を開く。
 第一ページには様々な記入欄がある。その第一行目にあるのが名前だ。
それを記入すれば人工人間として生を授かるという。

 香奈は手を伸ばし、机の上のボールペンを取る。
猫目模様のそれが小さな手の中へと収まっていき、カチリという小さな音と共に先端にインクボールが宿る。
本へと向かうインクボールが中空で一瞬止まり、香奈が口をわずかに開く。
独り言のように小さく、下校中に考えていた名を口にした。

「あなたの名前は、リアね」

 リアルの人間になる一歩手前の段階なので、リア。
 香奈は軽く覚悟を決め、ペンを本の上で踊らせる。
カタカナでたったの二文字。あっという間のお仕事だ。

「さて……」

 本は光るとか音を出すとか、そういった挙動を示さなかった。
 まるで手ごたえを感じない。
 何分か、静寂の時が刻まれていく。
 しばらくリアという文字を眺めていた香奈だったが、何も起きないと感じると興味を無くしたかのように本を閉じてしまう。
 未だ仰向けに寝っ転がったまま本を掲げ、その表面を見つめていると、

「は~い、ママ! わたしに素敵な名前をありがとう!」

 突然、香奈の耳に可愛らしく元気な少女の声が響く。

「えっ!? なに!? なに!? だれ!? ぐげぁっ!」

 驚き声を上げた瞬間、本から手を離した。
 万有引力の法則に従い、本の金具部分が香奈の顔面へと着地。顔を手で覆いベッドの上で暴れることとなった。
 つまりは制服はシワシワになったわけだ。

「し、しぬかと思ったー」

「あははははははっ! だいじょーぶ?」

 涙目で鼻頭を両手で押さえつつ、香奈は声の主を視線で探す。
 まず初めに本だ。
 なにせ最先端技術の結晶なのである。音声出力くらいわけないだろう。
 と思ったが、音源はそっちではない。
 ベッドの横から聞こえた。

「ねえ、大丈夫?」

 その声の主が顔を近付けてきた。
 もの凄くキレイ――それが香奈の第一印象。
 白い肌に、クセのまったくないキレイな長い銀髪。笑みが良く似合う小柄な丸顔と小柄な体系。
 その体を覆うのは青を基調とした金糸模様の入った服。ミニスカートから伸びる足は黒いタイツに覆われている。
 そしてなんとなく、自分と同い年だなと感じられた。
 そのキレイな顔に見とれていると、段々と顔が近付いてきて――そのまま鼻にキスされた。

「ひょへええっ!?」

 驚き、瞬時に後退した香奈の後頭部を、衝撃が襲う。
 ベッドは壁際にあるので、そちらと接触事故を起こしたのだ。
 今度は後頭部を押さえだす香奈。忙しいことだ。

 突然現れた少女は、香奈の動きが余程おかしかったのか、先ほどにもまして大きな声で笑い出した。

「うぅぅぅ、痛い……」

 涙目になりながら、香奈は目の前の少女に当然の疑問を持つ。

「えっと、あなた誰?」

 その質問はこの状況ではナンセンスであろう。
 香奈は瞬時にそう考えたか、すぐに質問文を言い直す。

「あーっ、あなたが本の……ええと、本から出てきた人工人間さん?」

「おお、かしこい!」

 人工人間――リアは目を見開き口を大きく開け、あからさまに大きな拍手を鳴り響かせた。

「バカにしてるんかぃ!」

「いやいやいやいや、幽霊さんとかなにかと思って逃げちゃうんじゃないかな~と思てたんで」

 言いながらベッドの上にあがってくる自称幽霊さん。

「あ、ただ一個訂正。わたしの本体はあくまで『大いなる淑女』――この本ね。今ママが感じているのは、脳に送っている情報……あー、幻覚みたいなものって感じかなぁ」

 幻覚と言うが……リアの足が乗ってる部分のベッドの沈み込み加減とか、布ずれの音、そばに寄られたときの吐息や体温、そして甘い匂いなどが感じられてしまう。
 香奈にとってはリアルそのものだ。

「実際はそこにいないの?」

「そだよ、感覚だけ」

 香奈は確かめるべく恐る恐る手を伸ばす。
 指先がリアの服に触れる。
 滑らかで柔らかく、その感触が香奈の心拍数をほんの少しだけ上げていく。
 生地に触れた指先をさらに進めると、別の柔らかさが香奈を襲い、さらなる心拍数の上昇を促した。
 硬直したその手に、もう一つの可愛らしい手が重なる。

「ママの手ってスベスベだよね~」

 リアが指先で撫でると、香奈が体を震わせて小さく飛び上がった。
 超高速で手を戻し、それを自身に抱き寄せる。

「さ、触り方が変だって!」

 歯をくしばり射るような視線を投げかける香奈に、しかしリアは押し殺した笑いで返す。

「マ、ママ、反応面白い」

「しょ、初対面でしょ……わたしたち……それにさっきからママって……」

 反論しようとした香奈の声がしぼむ。
 自分で言っておいて、初対面の相手だと今気づいたようだ。
 友達も作らずクラスで孤立しがちな香奈的には、初対面の相手がマイルームにいるということが非常に気まずいのだろう。
 緊張から顔が上気し、呼吸も早くなる。心音も上がっているかも。
 それに対しリアは、まったく動じた風ではない。

「うーん、初対面っていうのは悲しいなー。香奈ちゃんはわたしのお母さんなんだよ?」

 少し後退していた香奈に、体を近付けていくリア。
 その目は怯える香奈の瞳を真っすぐ捉えていた。

「お母……さん? ……」

 香奈はリアの視線から顔を逸らさず、その言葉を反復した。

「そそ、お母さん! ママ~生んでくれてありがと~」

 リアは感極まったように香奈に抱き付いてしまう。
 香奈の体が高圧電流でも走ったかのように、激しく震えた。目が大きく見開かれ口も開く。
 気が動転してしまっているようで、リアに抱き付き返すということはしない。

「なっ、やぁ……あわわぁ……」

「ねえ~、ママも抱き返してよー。ね~」

 耳元でささやかれるリアの声は可愛らしく、その吐息が香奈の耳をくすぐる。
 リアの甘い匂いも襲ってきて、香奈の理性が決壊しそうになるも、すんでのところで耐えた。

「ち、近いって~!」

 両手の平でリアを突き飛ばし、急いで『大いなる淑女』を開く。
 最初のページ、名前の行から下に目を走らせてく。

「えっと――これ!」

 目当ての項目にペンを走らせる。
 所有者との関係――友人!

「うん? 香奈、どうしたの?」

 抱き付いていた手をほどき、疑問符を浮かべた表情で香奈を見つめるリア。
 先ほどまでの猛攻は収まった様だ。

「あーっ、初期設定って言ってもいいのかなー? この本は所有者を母親として認識してたのかな?」

「この本と言うか、それがわたしなんだけど……まあいいか、そそ、起動させてくれたのが香奈なんだから。香奈はわたしのお母さんっていうことになるでしょ?」

 香奈は今のセリフと、本の記入項目について思いを巡らす。
 いろいろと設定出来るし、所有者を生みの親と認識したりで、これって人間っていえるのかな? まるでペットかお手伝いロボットみたい。
 香奈がリアを見つめていると、リアが笑みをもらす。

「なになに香奈? リアちゃんが可愛くて惚れちゃったかな?」

 なんて言いながら、香奈のほっぺたをつついてきた。
 そんなに強く無いのでリアにされるがままになりながら、なおも考える。

「これが開発者さん的には、友人距離なんかなー?」

 リアは、香奈の家の中を物珍しそうに見て回っていた。
 飽きもせず、ずっと見て回っているので、香奈は疑問を投げかけた。

「うちにあるものって、珍しい?」

「何もかもが珍しいよ。わたし、さっき生まれたばかりだし」

「うん? 元からデータがある程度入ってたり、ネットワークに接続されてるとかは無いの?」

「入ってるけど、実際のものを見るのとじゃあ全然違うよ。ねえ香奈、これは何?」

 指さしたのは、ボーリングのピンに形状が似た人形。
 表面の絵柄は、なんとも不気味というか崩れた造形となっている。

「ああぁ~、それは小学校二年生だったかな? お父さんがお土産で買ってきた無地のマトリョーシカにわたしがウサギの絵を描いたの」

 リアは少し驚きの表情を浮かべつつ、香奈の顔と自称ウサギのマトリョーシカを交互に眺め、

「ウサギ?」

「言いたいことは分かるけど、しょうがないよ。まだ小さかった頃に作ったのだし」

「出来が悪いのになんで飾っているの?」

「いいじゃない、思い出よ思い出!」

 無遠慮な物言いに、少し語気が荒くなってしまう。

「何を怒ってるの? ほんとの事なのに……」

 香奈の反応を理解できず、困惑の表情を浮かべるリア。
 どう返せばいいのか反応に困っているようで、その場で立ち尽くしてしまっている。

「あーっ! もー!」

 リアの腕を取りベッドに引き戻す。
 隣り合って座ったまま、香奈は諭すように言葉を紡ぐ。

「いい? 人のことを悪く言っちゃダメだよ」

 人差し指を上に伸ばし、リアに向ける。
 玲奈先生のマネだが、香奈自身、そのジェスチャーの意味を知らない。
 リアはその指を見つめつつ、

「人じゃなくてマトリョーシカだったけど」

「……うっ……」

 即反論され言葉に詰まる。
 なんと説明しようと、言葉を探す。

「えっとね……えっとぉ……人の思いが込められたものは……うんと……人と同じように思いやらなければならないの……うん」

 香奈自身、うまく説明できているか自信の無いそれを、何度もうなずいて聞きいるリア。

「つまり、あのマトリョーシカには人権があるの?」

「う~ん……人権って言うのかな?」

「わたしには人権無いからなー」

「うっ……」

 人工人間にはいまだ人権は存在していない。あるのは所有権くらいなものだ。
 では、リアとマトリョーシカとではどう違うのか?
 分からなくなったので、もーどうにでもなれと香奈は思ったままを口にし出す。

「あーもー、分からん! なんか気に入らんって思ったら気に入らないって怒鳴るから! そしたら次からそれはやんない! オーケー?」

 一気にまくしたてる香奈をぽかんと見ているリア。

「わたしが出来が悪いって言われたら、香奈は気に入らない?」

「え? ……」

 一瞬の沈黙。
 そして即答できない自分に、内心驚く香奈。

「うーん……ごめん。たぶん気に入らないと思う……けど、わたしとリアってそこまで親しくなれて無いというか……」

 本人を目の前にこんなことを真剣に語るのは初めてだ。
 香奈の手の平に脂汗が浮かび、顔が上気する。
 言いながら自己嫌悪へと突入しそうな香奈のほおを、リアの両手が包み込む。

「なら、これから親しくなっていってよ。わたしが悪く言われたら、香奈がさっきみたく本気で怒るくらいに」

 もやもやとした空気の中、それでもリアは笑顔を浮かべていた。
 その笑顔がプログラムによるものなのか、それとも本心なのか、香奈には判別つかない。
 そもそも、本心とプログラムの違いとは何なのか?
 そこが理解できないと、人工人間に人権を与えるとか、考えられないのではないか?
 ずっとずっと難しいことを考え、それでも回答までたどり着かず、香奈の育児一日目は幕を閉じていった。

 所有者との関係の欄から、友人の文字が消えた。
 リア――『大いなる淑女』が実情との乖離があると判断したからだ。
『大いなる淑女』に対し、一方的な設定は出来ないし、普遍的なものでもない。様々な設定は周囲との関係やこれからの成長で変わっていくものなのだ。
 新しい関係は記入されない。これからそれを模索していくのだから。

 学校へもリアを連れていく。
 他者から見ればただの分厚い本だ。銀髪少女として認識できるのは香奈だけ。
 香奈は休み時間ごとに本を取り出し、中身を読むふりをしながらリアに構ってあげていた。

「けど、嬉しいな」

「何が?」

 リアのつぶやきに香奈が反応する。
 周囲からおかしく思われないよう、口の動きは極力小さく、かすれるような声で。それでもリアには通じているようだ。

「香奈が他の子と話さずにわたしとだけ話してくれてるから、暇にならなくていいわ」

「悪かったわね、友達いなくて」

 あるいはこれが、玲奈先生がわたしに本を託した理由なのかも。
 友達いない分、香奈は自然とリアに付きっきりになってしまうのだから。

「友達はいるでしょ? わたし!」

 リアは今日も今日とてまぶしい輝きを放つ笑顔で、自身を指差す。

「……そだね~、友達で、赤ちゃんで……うん、大切な子だね」

 本に覆いかぶさるように倒れ込み、顔はリアに向ける。
 リアも机にほおを当て、こちらを覗き見る体勢となった。
 リアの吐息が聞こえる距離だ。息が吹きかかるのでちょっとくすぐったい。

「うーん、学校生活初の友達がリアか~」

 本だけが友達と言うのは寂しい。
 絶対に人権を持ってもらい人間と認知されてもらわないと! 香奈は強く心に誓った。

 授業中は教室内をふわふわとさ迷う。
 他の生徒の様子を見たり、先生の横に立ってみたり。
本体は香奈のバッグにしまってある本なのに、あれで見えたり聞こえたりするのかな? なんて、香奈は素朴な疑問を浮かべていた。
 香奈の視線に気付いたか、リアが視線をそちらに向けつつ教壇へと向かう。初老の男性先生は、当然気付かない。
 香奈が視線で何をする気なのか問いただそうとしても伝わらないか、何も返してこない。
 そのまま先生の後ろに立ち、両の手の平を立てて、

「うさぎぃ~」

「……ぅぷ……」

 思わず口をふさぐ。初老の先生がうさ耳を付けた姿を想像してしまったのだ。
 危うくクラスの有名人になるところであった。
 そうさせようとした首謀者に、香奈はキツイ視線を投げ付ける。
 するとあっさりとやめて、リアは香奈の元へと飛んで行く。

「香奈、怒った?」

「怒ってないよ!」

 明らかに怒っていた。

「ねえねえ」

「怒って無いってば!」

「そーじゃなくて、あの先生も香奈にとって大切な人?」

「あーそういう……」

 まだリアの中でそのことが尾を引いているようだ。

「今のは教室内で笑わそうとしたから怒ったの。危うくクラスの伝説にされるところだったじゃない」

「レジェンドってすごいじゃん」

「そんな凄さは欲しく無いわ!」

 リアは本気で話しているみただが、話しがかみ合わない。
 知識だけで人生経験ゼロだとこうなるものなのか?

「リアって普通にしゃべれたりするけど、やっぱり赤ちゃんだよねー」

「そーだよー、赤ちゃんだよー。だーかーらー……大切に育ててね、ママ」

 ママと言う単語に香奈は過敏に反応した。
 授業明けに本を取り出して見てみる。
 所有者との関係の項目が、友人から母親に変更されていた。

「……なんで?」

「わたしはお手伝いロボットとかじゃあない。人間よ。自分で考え行動し、自分で世界を構築していく。誰にも強制できない」

 今もずっと笑顔を絶やさないリアだったが、香奈にとってはそれが恐ろしいものに見えてきた。

「ど、どうするの?」

 自分の生活圏が得体のしれないものに脅かされるのか? 香奈は緊張しつつ、自身の中に恐怖が湧き上がっていくのを感じていた。
 またも顔が熱くなっていくが、昨晩のような気恥ずかしさとはまったく別の感情によるものだ。

「どうもしないよ? わたしと一緒に暮らしてくれれば。一緒に成長していきましょ?」

 香奈は、事ここにいたり自身の認識が間違っていたことを悟る。
 人工人間だ人権だと言われても、今の今まで愛犬ロボットとかその程度の認識であったのだ。
 今からは違う。
 独立した思考を持った存在である。そんなのと共同生活していく自信はない。
 香奈は本を乱暴にバックへ押し込み、席を立つ。

「へ? 香奈、どこへ?」

 リアに答えず全力で走り出す。
 廊下にいる生徒たちから注目を集めてしまうが、香奈はもうそんなこと気にもしていない。
 リアの幻影は追いかけてきていないようだが、その本を香奈が持って移動しているのだからそれは考える必要は無いこと。
 廊下に出ている無数の視線の波をかき分けて着いた場所は職員室。
 到着と同時に乱れた息を整え、気持ちを落ち着かせていく。

「失礼します!」

 次の授業があるからか、中にはそれほど人はいない。
 そのため、目当ての人物を見付けるのはさほど苦労はしなかった。

「玲奈先生」

「おや? 香奈ちゃんどうしたの? 次の授業、もうすぐ始まっちゃうよ?」

 次の授業の予定の無い玲奈先生は、イスに座り熱いコーヒーを飲んでいた。
 コーヒーを学校内で飲めていいなと、一瞬変な思考が入り込んだがそれを振り払う。
 バッグから『大いなる淑女』を取り出し、玲奈先生に差し出す。

「ごめんなさい。わたし、お母さん役とかやっぱり無理そうです」

「香奈! なんで? どうしたの?」

 驚きの声と共に、リアのイメージが香奈の目の前に現れる。

「リア、ごめん。けどわたし、人との共同生活とかどうしたら分からなくて、どうなっちゃうか不安で……うまく答えが出せなくて……」

 リアにどう説明すべきか分からず、消え入りそうな声を絞り出していく。
 気持ちがいっぱいいっぱいになり、飛び出してきたが、香奈自身が混乱していて考えがまとまっていないのだ。
 それで、全部投げ出そうとしている。

「リアって名付けたんだ」

 玲奈先生が、まずはそこからと香奈に問いかける。

「はい、昨日家で付けました」

「ふむふむ……おおっと、ここじゃ他の先生たちもいるし生徒指導室に行こうか?」

 生徒指導室は職員室の隣だ。
 香奈は玲奈先生に無言でついて行く。リアの幻影もだ。
 みなが入り終わると、玲奈先生は鍵を掛けた。これで話しの途中で乱入者が現れることはない。

「香奈ちゃん、なにやらいっぱいいっぱいな感じだね」

 香奈の背中を玲奈先生がやさしくさする。
 感情がいっぱいとなり、それが現実世界にへと現れ、涙となっていた。
 リアはそんな香奈の様子に、どうすればいいのか分からず戸惑っている。
 そして自分だけでは無理と判断し、玲奈先生の前にも姿を現した。

「えっと、香奈ちゃんの先生ですよね。わたしリアです! これってどうすればいいんでしょう?」

 突然イメージの見えた玲奈先生は少し驚きつつも、すぐにリアの存在を察する。

「あーっと、初めましてなのかな? 香奈ちゃんの前にはわたしが持っていたんだけど」

「名前を書きこまれる前は、意識が始まっていないので。今回が初めましてになります」

 リアは笑顔を浮かべておらず、目を見開き息を荒げていた。

「ほんとに人間のような反応だね。うーん、二人ともどうしたの?」

 リアと香奈を交互に見る。
 その質問に先に口を開いたのは香奈だ。

「名前以外にも、関係も書き込んだんです! 友人って。けど、それが消えて母親になってて……」

 直前にあった驚きの事実だけを玲奈先生にぶつけるが、当然それだけだと玲奈先生には状況がサッパリ理解できない。

「わたしは人間なの! 設定された通りに作動するお手伝いロボットとは違うの!」

 今度はリアが叫び出す。
 それに玲奈先生が驚く。とてもロボットと思えぬ、説明になっていない説明に。

「オーケーオーケー。二人とも混乱しているのだけは分かったから。ちょっと落ち着いて……そうだねぇ……昨日からのこと全部話してよ」

 香奈は一度気持ちを落ち着かせ、すべての出来事を話していった。
 かいつまんだりせず、全部のことを話したので時間がかかってしまう。
 その間、玲奈先生はもちろん、リアも黙ったまま聞き手に回っていた。
 全てを聞き終えた先生が、内容を整理するため目をつむりジッと黙したまま難しい顔をする。
 心配そうに見つめる香奈とリア。
 やがて目を見開き、口を開く。

「香奈ちゃん、生の人間を相手にしてると感じて混乱しちゃったのね。ずっとそう認識してなかったのにいきなり気付いちゃって、それでどうしたらいいか分からなくなったと」

「はい……」

 叱られているかのように、頭を垂れて小さく答える。

「リアちゃんは、突然の香奈の変化が理解出来ず、戸惑っちゃったのね」

「そうです。もー何が何だかサッパリで」

 リアは頭を抱えて振り回し、混乱していることをアピールする。
 混乱はしていても、苦しそうにはしていないリアの態度に、香奈は少しだけムッとした表情を浮かべた。
 それに気付いた玲奈先生は、少しだけ笑みをこぼす。

「なるほどなるほど理解理解。要はキミらが二人ともに未熟でありつつも成長してきているわけだ」

「未熟?」

「成長?」

 香奈とリアの声が重なり、二人して互いの顔を覗き込んでしまう。
 その姿を微笑ましいと思いつつ、玲奈先生は話しを続ける。

「香奈ちゃんは今まで、他の人に対してどうしたらいいかって悩んだことある?」

 聞かれて考え、

「うーんと……いつも、かも。どう話そうかとか、どこにいたらいいかとか、何をしたらいいかとか……」

「それはその場を取り繕ってるだけ。深く付き合えば思い通りじゃない部分も出てくるし、リアちゃんが自分の思い通りにならないから怯えてるんでしょ? 予想できないから、相手に悪いことをしちゃうかもしれないし、逆に自分が傷つくかもって」

「そうなの、かなー?」

 香奈自身に自覚は無いというか、自分の気持ちがうまく言葉で表せない。

「リアちゃんは、まだ生まれたばかりで、どうすれば人がどんな反応するのか分からないでしょ? 恐怖を感じたことも困ったことも無いだろうし」

「うん。まだ知るというのがどういうことか、理解して無いかも」

 香奈とは違い、まったく動じていないリアの態度。
 またもや香奈がリアを睨みつける。リアはそれに気付くが、何を睨んでいるのか分からない様子だ。

「香奈ちゃん、もう少し付き合ってあげてくれない? リアちゃんが香奈に対して悪いことをするかもしれないけど、その都度怒ってあげて。リアちゃんも、香奈が嫌がってるって分かればやらないでしょ?」

「うん! 香奈はわたしが守る!」

 微妙に違うニュアンスの回答ではあるが、まあ問題無さそうではある。
 問題は――

「わたしは……」

 香奈が小さくつぶやく。
 玲奈先生もリアも黙って聞き入る。

「わたしは……」

「ふぅ……」

 自室のベッドに仰向けに倒れ、天井を見つめる。
 部屋は真っ暗だ。
 気は晴れない。気持ちが疲れ切って、何もかも投げ出して逃げたい気持ちだ。
 最も、逃げ出す場所なんてないし、すでに逃げているも同然である。
 真っ暗闇ではあるが、文字盤が光るため時計の時刻は見ることが出来た。
 もう深夜かと思っていたが、まだまだ今日は終わりそうにない。
 夕食はまだだが、食欲は湧かない。

 結局リアを玲奈先生に預け、一人帰って来たのだ。
 心がとても重く、罪悪感が消えない。
 悪いのは自分だったのだろうか?
 手をめいっぱい広げ、天井へと向ける。

「あー……」

 この手はリアみたいなキレイな手じゃあ無いのかな?

「香奈は今頃どうしてるのかな?」

 玲奈先生に預けられたリアが、本日何度目かの同じセリフをこぼす。

「うーん、ご飯食べてお風呂入ってならいいけど……たぶん、ベッドで寝転がったままじゃないかな?」

 リアが部屋着に着替え中の玲奈先生の方を向く。

「なんで分かるんですか?」

「自分が過去にそうだったし、そんな子たちをたくさん見て来たから。それが経験よ」

「経験か~」

 玲奈先生には数十年分の経験がある。リアには一日とちょっと分しかそれがない。

「けど、経験を積むまで待っていたら、香奈がどうなっちゃうんだろう?」

 リアの表情は、驚きと困り顔と悲しみの顔、それしか見て無いなと玲奈先生は悲しく思う。
 香奈の話しだと笑ってばかりだったとか。少しうらやましく感じてしまう。

「リアはどうしたいと思う?」

 素朴な疑問を、生まれたての少女にぶつける。

「わたし、ですか?」

「そ。人間って、自分の願望を叶えるために自分が傷付いたりも相手を傷付けたりもするの。それで互いに貸しを作り合って、それを消化するためにガンバりまくるわけだ」

 これで合ってるのかな? 玲奈先生自体まだまだ若いといえる。なので、一言付け加える。

「わたしの年でもまだまだ経験が足りなくて、失敗ばかりするし、分かってないことだらけなんだわ」

 誤魔化し笑いを浮かべる。
 たぶん、リアの笑顔に比べたら酷いものなのだろう。

「それってどうすればいいんです?」

 困惑気味のリアに、無責任な一言を言い放つ。

「相手のことが分かんないなら、自分の願望優先で動けばいいんじゃない?」

「わたしの願望は……ただ、香奈のところに行きたい!」

 必死なそれでいて分かり易い答えに、玲奈先生は笑い出す。

「どうして笑うんです?」

「いやいや、生後一日ちょいの子に教えられるとはね。いいねいいね、わたしもそこまで分かり易く生きれればいいんだけど――」

 玲奈先生はリアの肩を叩きつつ、立ち上がる。

「どこに?」

「今から行くところなんて一つでしょ?」

 その答えに、リアが満面の笑顔を浮かべる。
 ああ、この笑顔はずるいな。可愛くてどうしようも無くなる。

 香奈は未だ暗い天井を仰ぎ見ていた。
 何も考えずぼーっとしていると、カーテンの隙間から部屋の中に向かって明かりがちらちらと入り込む。
 マンションの表を車が通ったのだろう。
 香奈は何の意志も無く、その光を追った。

「香奈―っ!」

 大声が香奈の耳に響き、思わず飛び跳ねてしまう。
 その、今聞きたかったような聞きたくなかったような声に向かい、

「ちょっ! こんな時間に近所迷惑!」

 叫ぶも、どこから言われたのか皆目見当もつかない。
 それと自分こそ近所迷惑だったかなと、少し気恥ずかしくなる。

「香奈あああああぁぁぁ―っ!」

 再度のリアの叫び声。

「ああもう!」

 見える範囲でリアの姿も本も無い。
 起き上がりカーテンを引く。

「ぎゃあぅ!?」

 香奈は心臓が止まるかのような衝撃を受け後ろに飛ぶ。
 表に居るのだろうと予想していたが、まさか窓の外にリアが浮かんでいるとは思わなかったのだ。

「し、死ぬかと思った……」

 本気で驚き、涙目になりながらも起き上がる香奈。

「だ、大丈夫香奈?」

 リアが当然のように窓を通り抜けてくる。
 イメージなのだから物理法則は関係無いのだろう。

「あ、あんた……ほとんど心霊現象ね……」

「再開の第一声がそれって、怒るよー」

 リアが珍しくほおを膨らませる。笑顔以外はほとんど無かったのに。

「怒るの?」

「そうだよ! 人のことを悪く言うのはダメだぞ!」

 人差し指を突き立てそう怒鳴るリアに、香奈はおかしくなり、

「うん、そうだね。ごめんね、わたしまだ人生経験とか無くて良く分かって無いの」

 そして、二人して笑い出す。
 ひとしきり笑い、二人は抱き合う。

「ごめんね、リア。わたし、自分が凄い奴だとか勘違いしてたのかも。わたしもまだまだなんだわ」

「うんうん、わたしもね。一緒にがんばろ!」

 表で待っていた玲奈先生はリアが一向に戻ってこないことを察し、『大いなる淑女』の第一ページを開いてみた。
 所有者との関係が、母親から親友へと変わっていた。

「成功か~良かった……」

 マンション外に設置されたポストに本を入れ、そのまま車に乗り込む。

「二人ともがんばんなよ」

 マンションから遠ざかる車に、二人は気付かず。
 二人の絆は、車の音に気付かない程度には深まっていったのだった。