COVID-19流行下の日々を集団で記録する日誌

記録をつける

2020-05-08

9年前、東日本大震災が起きて1週間くらいだったと思う。家にとある新興宗教が布教に来た。
「こんなにひどい災害がおきたり、外交関係が危ういのは、みんなの祈りと福運が足りないからなんですよ」って言われた。
それ以来、この宗教の名前を見かけるたびに、布教失敗すればいいのにと思っている。

それから一年後、街を歩いていたら、別の新興宗教の団体が配布していた本をうっかり受け取ってしまったので、興味本位で読んだ。
「私たちの団体からは3.11の死者は出ていない。祈りのおかげで津波を免れた信者がいる」と書かれているところを読んで、すぐに捨てた。
それ以来その宗教の建物を見るたびに、早く滅びてしまえと思っている。

……最近になって、コロナウイルスから人類への手紙なる怪文書が出回っているのを見かけたときに真っ先に連想したのが、3.11のあとに私が実際に受けた宗教勧誘の話だった。

人は不条理に出くわしたとき、その不条理を解決するための「物語」を創造する生き物なのだと聞いたことがある。
そしてそれはたぶん、不条理に負けないための人間の生存本能だと思うし、それ自体を否定することはできないししない。

震災の後に私が受けた宗教勧誘で語られたことばも、本に書いてあったことも、コロナウイルスから人類の手紙に書いてあることも全て、誰かが世の不条理を嘆いて、悲しんで、憂いた結果、誰よりも先に自分自身を納得させるために生み出した「物語」のひとつにすぎないんだと思う。
私は神様を信じているけれど、それだって不条理を受け入れる過程で私が都合よく捏造した「物語」じゃないかと疑ってる。

だけど、誰かにとって救いのある「物語」が、誰かにとって残酷な言葉の暴力になりうることは、常に頭の片隅に置いておくべきだと思う。特にこんな、みんなが大きな不安を抱えているようなときには。
特に不条理や悲しいことや災害をを「神様」とか「地球」とか、その他のやたらえらそうな上位存在からの啓示としてとらえているのならば、なおさら。

長々と書いてわかりづらくなってきたけれど、
何が言いたいかっていうと、
コロナウイルスから人類への手紙に共感してシェアしようとしてる人は、
COVID-19で大切な人を失った人や、あるいは今まさに闘病している人の目の前で堂々と朗読できる内容かどうか、自分の良心に耳傾けてよく考えたほうがいい。
ということ。