COVID-19流行下の日々を集団で記録する日誌

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2020-05-08

自粛についての批判的考察(ダラダラ書いてたらめっちゃ長くなったわ、ごめん)

自粛とは、「強制しない体裁を取りながら従わない奴を晒し者にし、私刑を以て断罪する、村社会の形態の一種」だと思う。

戦後、私たちの社会はとにかく「全体主義になってはならない」「個人の権利が侵害されてはならない」というドグマのもと、国家による私権の制限・個人への関与を徹底的に排してきた。
「権利を制限せざるを得ない時はどうするか」という問いについてすら、「権利を制限せざるを得ない事態なんて想定してはいけない」「そんな事態が来ないようにすればいい」と前提を否定することで、ドグマを守ってきた。(新型インフル等特措法も権利の制限には踏み込めていない)

「自粛」はそんな戦後リベラルの一つの総決算とも言えるだろう。確かに、諸外国と違って権利の制限なしでここまでの成果を上げたのは見事なことだ。
しかし、村社会的な同調圧力には法律による権利の制限と違って際限がない。県外ナンバーの車への破壊行為、感染者の個人情報の流布や誹謗中傷、三密ではない外出の炎上などがいい例である。(本題ではないが権利の制限に伴う対策や補償も整備されていないのも問題である)

私権を制限しないという名目で団結を求め、それに従わない人(あるいはそう見える人)を村八分のように排除するというのは、まさに我々が忌避してきた戦前そのもの、本末転倒ではないだろうか。

ドラマ「リーガル・ハイ」で「本当の悪魔とは巨大に膨れ上がった時の民意だ」という言葉を聞いた。その暴走する民意に対抗できるのは法しかない。権利を制限せざるを得ない時にどこまでやるのか、一線をどこに引くのか。考える時が来ているのだと思う。
日本が同調圧力的村社会を脱し、本当の意味で個人を尊重する法治国家になることを願ってやまない。